人のアドバイスを聞いてるその時間が命取りだというくらい、感情というのは生ものなのだ。
なんで自分を愛してない人とつきあったのだろう?
私は当時の自分に言ってやりたい。
今すぐ別れろよと。
かわいそうだよ、君の体、だいじな時間、むじゃきな微笑み、真摯な想い。
みんなかわいそうだ。
それに別れればきっと、彼にもほんとうに愛せる人が出てくるわけだし。
愛していない人と過ごしている彼の時間もかわいそうだ。
やっぱり、一番大事なのは、人と、ナイスな関係で。
好きなことが、おんなじとか、ユーモアが、同じとか。
一緒に遊んでれば、なんか、いい関係になっていくと思う。
いっつもしゃべってたりとか、
一緒にごはん食べる、一緒に映画みたりとか。
いろんなことをいっぱいやってればもう、
関係はそうやってできていくし。
本当に、その人自身、であることがすべてだし
その人自身であることがいかに尊いか、
昔から「頑張る」という言葉が苦手だった。頑張るという言葉には「枯れた井戸を掘る」的な徒労感を覚える。多分、その井戸はすでに枯れているのだと思う。
だれかに弱さを見せたり頼るときに、相手になにかしてほしいという望みではなく「コンディションの報告」をするのは、とても合理的で誤解がないのでとてもいいと思う。
自分が3.11を経てあれほど誓った「今やれることは今やろう」をないがしろにした結果、約束が果たされないルートになった現実も受け止めた。悲しい気持ちはこれからも続く。
— 歩みを止めないTHE YELLOW MONKEY、「Four Seasons」まんまの雨宮まみ - グッドジョブ本人
いま、問題になっているのは、複眼的にものを見たり、さまざまな意見を比較したりしないで、自分に都合のよい見方だけにこだわって、それ以外の見方を受けつけない態度なのではないのだろうか。自分自身を誤魔化していることの後ろめたさや、簡単に解決のつかない複雑な問題を忍耐強く考える面倒から、スッキリした気分になれる安易なカタルシスへと流される傾向といってもいいだろう。
家のない生活を始めた頃から、多分、私は無意識のうちに「人並みであることを諦めた」のだと思う。
自分が幸せになることよりも「他人から幸せだと思われること」に主眼を置いた生き方をしていたのだと思う。
愛は地球を救うとか言っている場合ではない、まずは自分を救え。
<理不尽な出来事が起きた時>は<大きなステップが約束されている>らしいのです、<文句や愚痴を言わないようにしましょう、宇宙の味方が得られ難くなります>
人を理解するには、
「同じ」であることを理解するのと同じくらい
「違う」ということを理解することがとても大事です。
自立とは何だろうか。それは、月並みな言葉になるけれど「自分で自分にOKを出す」ということではないだろうか。どのような生き方をしていたとしても、いま、こうして無事に生きているということは「大丈夫である」ということの最高の証明になりはしないのだろうか。人間としては不完全でも、不完全で当たり前、不安になることがあっても当たり前、落ち込むことがあっても当たり前、でも、大きな全体の流れの中では「生きている【成立をしている】」というこの点において、私達は、実は『パーフェクトな存在である』とは言えないものだろうか。